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ダグ🥶😡🤢😈
まず全知全能の神がいるという前提で行くと、神が「なぜこうも不完全で残酷な世界を作ったのか」という疑問が生まれてくる。全知全能ならば飢えや争いのない世界をつくれば良い。
では、なぜ神があえてそうしなかったのかを考察してみるに、この不完全な世界にあって、完全な世界にない、何かがあるからだ。
その何かとは、主に人間の生み出す、思想、芸術、情熱だろう。
もし完全な世界があるとする。孤独も飢えも貧困も争いも、あらゆる困難がないとすれば、故郷を救う英雄も現れなければ、友人や恋人と再会するという感動もない。完全な世界は完全無欠なのだから誰かからの愛を有り難がれるはずもない。何も必要としないのだから。当然、あらゆる芸術は生まれなくなる。カタルシスなどもってのほか。
不完全な世界であるからこそ、感動や情熱が生まれるとなれば、この不完全な世界は人間からそれらのものを収穫するためのファームかもしれない。あるいは神を観客とする劇場かもしれない。
完全な世界とは、それすなわちこのような人間の思想、芸術が生まれ得ない、ある意味で不完全な世界であるというパラドックスがそこにある。真の意味で完全な世界とは、あり得ない。全知全能と思われる神をもってしてもそれは作れない。それは四角い丸が存在できないのと同じ。両者は両立できない。四角くて丸い月が空に浮かぶことはあり得ない。
話は変わるが、竹取物語のかぐや姫は月の者として地上に現れた。かぐや姫は地上で様々なことを体験し、月の使者は迎えに上がる。朝廷はそれを阻止しようとするが、月の使者は神のような能力を持っていて、赤子の手をひねるようにそれらを完全に無力化した。
かぐや姫は地上との別れを悲しんでいたが、迎えの者に天の羽衣を着せられた瞬間にそれら全てを忘れた。
天の羽衣を着ること=月という完全な世界に戻るということ。そうなって仕舞えば、完全無欠な状態と地上の人間の用うるあらゆる情熱とは両立できないので、かぐや姫はそれらを忘れてしまったんだろう。この作品は作者不詳だか、自分と同じ思想を持っていたに違いないと思ってしまう。
ちなみにジブリ作品の「かぐや姫の物語」で、この月の使者の来訪シーンで流れる音楽があるが、これが完全で極楽な雰囲気なのに、どこか無機質さや不気味さを感じるというものになっていて、作曲者の久石譲には感銘を受けてしまう。
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