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ちゅぽ
数年前に映画解説を念頭に起きながら、火垂るの墓を見た
その時、感じたのは
きっとあれは清太を通して「人間が孤立する過程」を見せたかったのかなと思った
最近、清太が働かない事が注目されてきているが、多分清太は根っから怠け者でわがまま、という訳ではなく、ただただ自分の心を守って癒すのに必死だっただけなのかなと思った。
きっと傍から見たら「そんなしょうもないことをやってないで手伝えや!」と思うくらい根性無しに思えるかもしれないが、きっと清太にとってはとても大切なことであり、清太なりに一生懸命だったのだろう。
きっと清太の「痛み」を共感、理解しようとする「大人の味方」が隣にいたらまた違った未来があったのかもしれない。あの時の清太の味方は生きる力が弱くて幼い「節子」しかいなかったのだろう
きっと、あの映画に出ている人達は誰も悪いことはしていない。ただただ自分たちが正しいと思ったことを一生懸命やっていただけ。だからこそ、余計悲しくて、やるせなくて、胸糞が悪かった。
清太や節子は「心を庇う」という自分の気持ちに従った。それが自分らにとって必要な過程だと考えたからだろう。根本の心理は、おばさん達と同じく「自分が正しいと思ったこと」を一生懸命やっていたのだ。
しかし、世間が求める意識は「辛くても一致団結して戦争の危機を乗り越える」だった。清太は世間の考えに合わせられなかったのである。
結果、清太兄妹は社会から孤立し死んでしまった。
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サックサクダァはどこで使われる言葉?
サックサクダァは、主に日本の若者の間で使われる言葉で、特にSNSやカジュアルな会話でよく見られます。この言葉は、何かが非常にサクサクしている、つまり軽快でスムーズな様子を表現する際に使われます。具体的には、以下のような場面で使われることが多いです。
食べ物: サクサクした食感のスナックやお菓子、例えばポテトチップスや天ぷらなどの料理に対して使われることが多いです。
ゲーム: ゲームのプレイがスムーズで快適な時に、プレイヤー同士の会話で使われることがあります。
日常会話: 何かがうまくいったり、スムーズに進行している時に、軽いノリで使われることが多いです。
このように、サックサクダァは日常のさまざまなシーンで使われる言葉で、特に若者文化に根付いています。

リー@
そしてガーナ代表。彼らはこの先必ず強くなってきますよ。アウェイでも堂々としたプレー、スイッチの速さに何よりもフェアプレーの精神。彼らに最高のリスペクトを贈ります。

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ちゅぽ 投稿者
だからこそ、胸糞が悪かった。 多数派に合わせられないと、簡単に嫌われ、無下にされる様を見せつけられた気がしたから。 個人的に火垂るの墓から得られる教訓は 「私たち人間は、嫌悪という感情で惨いことが簡単にできる生き物だということを自覚しようね」と「自愛と他人を思いやるバランスをとるのは本当に難しいよ」だと思った。 大量の長文、失礼いたしました。 ここまで読んでくださった方、本当にありがとうございます。
ちゅぽ 投稿者
人間と言うのは醜いもので 好きな物は受け入れたり近づいたりし、嫌いなものは遠ざけたり攻撃したりするところがある さっきの文章で清太に「大人の味方がいたら死んでなかったかもしれない」と書いたが、果たしてあんな緊急時に、他人の痛みを受け止め、理解しようとする優しさを持てるのだろうか… ただでさえ、他人を気遣うのだって神経をそれなりに使うのだ。緊急時だったら余計労力がかかると思う そう考えると、余裕のない大人に優しさを求めるのはなかなか酷な手段だと思う。見方を変えたらメンヘラムーブである
ちゅぽ 投稿者
今の時代は多様性の時代だから、受け入れられている思想や価値観は映画の頃と比べたら圧倒的に増えたと思う。 しかし、我々人間が持つ「嫌悪したものは切り捨てる」という感情がある限り、清太のように孤立する人間は絶対に居なくならないと思う。 度々「自分らしさを好きになってくれる人がきっと現れる」という考えをみかけるが あの映画は「もしも、自分らしさを好きになってくれる人が全くいなかったら」 という私が薄々想像していた絶望を違和感なく表現されていた作品だと思う。 大袈裟に言うと「自分以外の人間は全て敵」中々の地獄絵図である
ファルシオンβ
岡田斗司夫の解説より興味深かったです 持てる者と持たざる者との視点で受け取りかたはまるで変わりますね 含蓄ある長文なので思わずフォローしました