音楽ジャーナリズムが得意とするカテゴリーについても、Manic Street Preachersだけはそのリスナー層が特定できないのだという。英国の音楽ジャーナリストはカテゴリー分けが得意らしいが(範疇を問題とするところにスコラ的な影響を感じる)マニックスだけはと一体どこにどういった聴衆がいるか特定するのは難しいいう。それは本当のことだろう。本来的な問いは常に、中間的にところに位置する。場所や地位の問題としての在り方という意味での中間である。マニックス自体が、歴史とロックの中間、文化とカウンターカルチャーの中間、文学と宗教と批判という中間点にいつもいた。極端ではないからいつも問いが突きつけられるのは彼らの要素が単純ではないからだ。彼らほど、三島由紀夫や太宰治や谷崎潤一郎を正面から読んだ英国人もいないだろうし、今となっては日本の若年層でもこれほどの読解を持つこともないだろう。
リッチーを肥大したエゴと断ずるのは簡単なことである。
しかし構造と透明化した支配、繰り返される歴史をみた者ならば、彼の立場を否定することは出来ないはずである。・・・そこに異を唱えたものがことごとく共同体から消し去られて殉教者か聖人か英雄かに祀り上げられて「われわれ」がその犠牲のもとに生きていることを自覚することはあっても。
だからマニックスのリスナーはコアな層はおそらくロックミュージックというものに対しても『』(カッコ)つきで接しているのだと思う。
問題はカテゴリーと範疇の問題でもなければ、階層とか階級の問題でもない。構造と顔のみえない支配体制と権威と人々の心性、そしてなによりも本来的か否かという存在論に根ざしているからではないか。
ホーリー・バイブルというタイトルのこのアルバムのジャケット写真は、
白人で短髪の以上に肥満体の女の姿である。
マリアでもアンナでもソフィアでもアテナでもない、もはやイアソンの妻メディアでも大地母神でもなく再生をつかさどるイシスでもない、そこに描かれた欧米社会の病理的日常はこの白人の肥満した醜さに収斂される。
歌詞で用いられる痩身な女性が原因である消費社会を暴くのに対して、カバージャケットが示すのは、結果としての現在の欧米社会の病理のように思える。まったくありかたは別だが帝国主義ヨーロッパの罪悪の告発の仕方は、どこかジョルジュ・ルオーのようでもある。
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音楽ジャーナリズムが得意とするカテゴリーについても、Manic Street Preachersだけはそのリスナー層が特定できないのだという。英国の音楽ジャーナリストはカテゴリー分けが得意らしいが(範疇を問題とするところにスコラ的な影響を感じる)マニックスだけはと一体どこにどういった聴衆がいるか特定するのは難しいいう。それは本当のことだろう。本来的な問いは常に、中間的にところに位置する。場所や地位の問題としての在り方という意味での中間である。マニックス自体が、歴史とロックの中間、文化とカウンターカルチャーの中間、文学と宗教と批判という中間点にいつもいた。極端ではないからいつも問いが突きつけられるのは彼らの要素が単純ではないからだ。彼らほど、三島由紀夫や太宰治や谷崎潤一郎を正面から読んだ英国人もいないだろうし、今となっては日本の若年層でもこれほどの読解を持つこともないだろう。