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重めのジョナサン

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怒りについて

最後に、心の底から怒ったのはいつだろう。

勘違いしてほしくない。
私が言う「怒り」とは、感情をそのままぶつけることではない。それは癇癪だ。

私が考えたいのは、もっと静かで、もっと深いところにある怒りだ。

いつからだろう。
怒ることを諦めたのは。

いつからだろう。
怒らないことが成熟と勘違いしたのは。

いつからだろう。
怒らないぐらいに自分を信じなくなったのは。

私はこれまで、
自分を引き受けること、
相手を概念にしないこと、
人を人のまま見ることを大切にしてきた。

けれど最近、はっきり分かってきた。
それらは、
人を裁かないための姿勢であると同時に、
私が現実と距離を取るための態度にもなっていたのだ。

それは、「怒らないこと」と同じではなかった。

むしろ私は、
怒らないことで現実と自分をないがしろにしてきたのではないか。

自分の中に確かに生まれた違和感や拒否を、
なかったことにしてきた。

いや、自分の確かな怒りと
衝突を避けていただけではないのか。

私は私のために怒りを手放していた。
でもそれは、決して私のためにならなかった。

怒りとは何か。

それは境界線を越えられたときに
生まれる警告だ。

「ここから先は入るな」という、
生きている身体からのサインだ。

だから境界線が定まっていなければ、
怒れない。

自分が何を大切にしていて、
何のためなら失えるのか分かっていないと
怒りは立ち上がらない。

自分が不在のままでは怒れない。

私は長いあいだ、
その境界線を見失っていた。

それは自分を失ってたということだ。

私は怒っていなかったのではない。
怒っている自分に、
ずっとフタをしていただけだった。

今になって思う。
私が書いてきたエッセイは、
本質的にすべて、
怒りから生まれている。

それは誰かを否定するための怒りではない。

それは自分と向き合わなかったツケを
誰かに払わせようとする態度に対してだ。

自分の人生に向き合わないものが
自分の人生、ましてや自分が望む人生を
生きられないのは道理である。

私は怒りを、
裁きと取り違えていた。
だから手放したつもりでいた。

けれど、
怒りは消えていなかった。
ただ、言葉を失っていただけだった。

なぜ、ここまで来てはっきり分かったのか。
それは、

自分の人生の弱さを、痛みを、
ようやく受け止めようとし始めたからだ。

自分の現実が見れないものが
どうして人の現実と対面できるだろうか?

自分の現実を見れないとき、
人は必ず
自分のメガネか
相手を捻じ曲げる。 

つまり
自分を守るために解釈するか
自分を保つために歪める。

自分の現実を見れない人は、
・不安
・願望
・恐れ
・理想像
・自己正当化

そのどれかを必ずフィルターにして、
相手を見ることになる。
だから相手は、
「生きている人」ではなくなる。

自分の現実と向き合うのは痛い。
未熟さも、弱さも、失敗も、
「思ったよりしょぼい自分」も
全部引き受けることになるから。

だから人は、
他人の現実を語りたがる。
他人の人生を設計したがる。
他人の選択に名前をつけたがる。

自分の現実すら見れないくせにだ。

だから私は、
もう怒らない人であろうとはしない。

怒りを正しく感じられる人でありたい。

関係を開いたまま怒れる
ように、現実を受け止めたい。

人はいつだって
自分と向き合わないツケを払っているだけだ。

ならやることは一つだけだ。

自分を抱えて、
生きる姿を晒すだけだ。
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