共感で繋がるSNS
GRAVITY(グラビティ) SNS

投稿

重めのジョナサン

重めのジョナサン

私を含まない私

この世には、
ピーナツバターを一切含まない
ピーナツバター味のドーナッツ
というものがある。

それを聞いたとき、
私は強い違和感を覚えた。
嫌悪に近い感覚だった。

誤解してほしくない。
アレルギーなどの理由で
それを選ぶ人を否定したいわけではない。
興味として一度食べてみることも、
ただ美味しいから食べることも、
私は否定しない。

引っかかるのは、そこではない。

ピーナツバターを食べられる人が、
ピーナツバターを含まない
ピーナツバター味を選び続ける、
その位置だ。

本体には触れられる。
引き受けることもできる。
それでもなお、
重さや後味や責任を避け、
雰囲気だけを摂取する。
これは味の話ではない。
態度の話だ。

引き受けないことを前提にした選択が、
いつのまにか癖になり、
やがて生き方になっていく瞬間。
私はそこに、
あのドーナッツと同じ匂いを嗅ぐ。

同じ構造は、
食べ物の外にも、至る所にある。
願望を個性と呼ぶ態度。
理念や言葉を、
免罪符のように使う振る舞い。
距離のある場所から、
言葉だけを投げる行為。
どれも立場や主張の問題ではない。
引き受けないまま、
そこに居続ける姿勢
その一点に、共通している。

引き受けないことは、楽だ。
傷つかずに済むし、
失敗もしない。
けれど、そのとき人は、
少しずつ
自分を差し出さなくなる。

そして、ある地点を越える。
何も引き受けないまま語るとき、
何も引き受けないまま選ぶとき、
その人は、

自分を含まない「私」になる。

そこには主語だけが残り、
手触りも、重さも、責任もない。
立っているようで、
どこにも立っていない私だ。
私は、そこにいたくない。
触れられるなら、触れる。
引き受けられるなら、引き受ける。
できない理由があるなら、
それは尊重する。

ただ一つ、
自分にだけは誠実でいたい。
どこに立っているのか。
なぜそれを選んでいるのか。

自分がどこに立っているかを、
ちゃんと自分で分かっていたい。

そして私は知っている。
私が、
引き受けたまま立ち、
逃げずに選び、
私を含んだまま生きるとき、

たしかにそこには、
私の味がする。
私の匂いがする。

それは誇れるものでも、
人に勧められるものでもない。
ただ、生きてしまった結果として
残ってしまうものだ。

私は、
その薄い匂いを失わないために、
今日も
自分がどこに立っているかを確かめている。
GRAVITY
GRAVITY2
関連する投稿をみつける
話題の投稿をみつける
関連検索ワード

私を含まない私