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重めのジョナサン

重めのジョナサン

今日は、
私たちのバカげたあの視点について話そう。

あの視点とは、私たちがありのままの世界を見る前に、すでにこの世界をどう見るかを決めてしまっているという態度のことだ。

つまり、結論を先に用意し、その結論に合うように世界を眺める。
世界を見て考えるのではなく、考えた通りの世界だけを見る。

私たちはそれを
「現実的」「賢い」「経験から学んだ結果」
などと呼ぶ。
だが実際には、それはただの視点の固定だ。

いや、もっと正直に言えば、もう何も見たくないという宣言に近い。

「人は結局裏切る」
「努力しても無駄だ」
「世の中は不公平だ」

こうした言葉は、世界の真理のような顔をしているが、その実、世界を見る前に貼られたラベルにすぎない。

ラベルを貼った瞬間、私たちは観察をやめる。

この態度がバカげているのは、
それが世界を単純化してくれるからではない。

自分が世界に触れて傷つく可能性を、最初から排除してしまうからだ。

結論を先に決めるという行為は、安全だ。
驚かなくて済む。
揺さぶられなくて済む。
自分が間違っていたかもしれない、という痛みを感じなくて済む。

だが同時に、それは
理解も、更新も、出会いも、すべてを放棄するということでもある。

世界は複雑で、矛盾していて、予測不能だ。
本来なら、私たちはその前で黙り込み、
「まだ分からない」と言うべきなのかもしれない。

けれど私たちは耐えられない。
分からなさに。
宙づりにされた感覚に。
だから結論を先に置く。
そしてその瞬間、
世界は私たちの内側の縮小コピーに成り下がる。

私はここで、
自分の嗜好程度しか持っていない、
空っぽの人間が、
その好き嫌いを出発点に、
ありとあらゆる「外的でそれらしい言葉」を寄せ集め、意見を持った“つもり”になる態度を、痛烈に批判したい。

彼らは考えていない。
感じているだけだ。
しかもその「感じ」は、
精査される前に結論へと飛躍する。
これは、ある種の設計主義や、
粗雑なリベラリズムにもそのまま当てはまる。
先に答えがある。

防衛費を上げることは、
「戦争を導く」。

ビーガンにならない人は、
「動物のことを考えていない」。

差別は──
と、言葉は無限に続く。
だが、これらは思考ではない。

連想ゲームに道徳を被せただけの産物だ。
世界はそんな単線構造ではない。
防衛費と戦争の間には、
政治、外交、抑止、歴史、地政学、無数の判断が挟まっている。
食の選択と倫理の間にも、
経済、文化、身体、宗教、地域性、
無数の理由が存在する。
それらをすべて無視し、
「私はこう感じる」

「だから世界はこうあるべきだ」
と短絡する。
これは優しさではない。
知性の放棄だ。

だから私は言う。
これは意見ではない。
これは思想でも、倫理でも、勇気でもない。
空っぽの嗜好が、言葉を借りて暴れているだけだ。
そして最も醜いのは、
彼らがその空っぽさを自覚していないことだ。
自分が世界を見ていないことを、
世界のほうが間違っていると思い込む。
その態度こそが、
私たちを最も愚かにする。

なぜ人は、複雑さに耐えられないのか。
理由は単純で、
複雑さは、自己を不安定にするからだ。
世界が複雑だと認めた瞬間、
私たちは三つのことを同時に引き受けなければならなくなる。
自分は十分に分かっていない
判断は暫定的でしかない
もしかすると自分は間違っている
これは、思考において最も苦しい状態だ。
足場がない。
正しさが確定しない。
自分の立ち位置が揺れ続ける。
多くの人は、この状態を
「誠実」ではなく「不安」として感じる。
だから逃げる。

逃げ道として最も都合がいいのが、
単純な因果関係だ。
これをした → 悪い結果
あれをやめた → 善い人間
こう考える → 正しい側
因果が単純であればあるほど、
世界は理解できた“感じ”になる。
重要なのは、
理解したかどうかではなく、安心できたかどうかだ。
ここで、嗜好が思想に化ける。
「私は不快だ」
「私は怖い」
「私は嫌だ」
この生の感情は、
本来なら自分で引き受けるべきものだ。
だが、それを引き受けるのは重い。
だから感情は、
道徳や正義の言葉に変換される。
不快 → 差別は許されない
恐怖 → 防衛費は戦争を呼ぶ
嫌悪 → それは時代遅れだ
こうして感情は、
検証不能な正しさとして再包装される。
さらに厄介なのは、
この正しさが集団に属するための通貨として機能することだ。
正しい言葉を使える人間は、
「考えている人」「優しい人」「賢い人」として扱われる。
ここで初めて、
空っぽの嗜好は“価値”を持つ。
考えなくてもいい。
疑わなくてもいい。
決められた言葉を唱えれば、
安全な側に立てる。
だが、その代償は大きい。
世界は更新されなくなる。
対話は不可能になる。
異なる立場は、理解の対象ではなく、
排除すべき「間違い」になる。
これはリベラルの問題でも、
保守の問題でもない。
思考を放棄した人間の問題だ。

本当に考えるということは、
答えを出すことではない。
分からないまま、世界を見続けること
それでもなお、判断し続けること
そして、自分の結論をいつでも壊せる状態でいること
それは不安定で、孤独で、
承認もされにくい。
だから多くの人は選ばない。
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