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ほしの
支援のО先生
まだ親しくしている先生なのですが、その先生に間接的に 例の音楽教師もどきについて
実は支援にも各先生たちは分割して入っているのですが、前々から、その音楽もどきの教え方が大概に酷い
あれは、教えてるとは言えないです。
プリントに書かれた教科書の本文の上にカタカナで読みが(しかも全部ですらない)書かれている「だけ」
子供たちが「ここはやった」と言うから、見てみればそのザマで
元より根本的にかなり学力が低い子たち
そも定着がしない子たち
あまりに酷いそのプリントを手に、「じゃあこの単語の意味は?」「この文訳せる?」と聞いたら「分かんない😢😓😔」
「教えてくれないの?それ、やったとは言わないよ?」と言うと、「分からなかったら「ハイ自分でやって 調べて」とか言われんの⋯😔」
我「何で?😰辞書か何か使うの?」
生徒「ううん、タブレットで でも調べても分かんないの⋯😢」
生徒「あの人自信が分かってないんだ だから教えられないんだよ😠」
生徒「それで「アタシ英語が一番得意かもぉ〜❤」とか言うんだよ?😠」
絶句しました⋯💧💧
流石に酷すぎるのでそのプリントを借り、O先生に直談判
「可哀想じゃありませんか?💧
前にやり方を改めろと言われてもこれのようで 言っては何ですが、これは「教えてる」とは言えませんよ💧
再度訴えかけてみられては?それでどうしても駄目ならもう私が教えます💧😰」と言いました
黒板めいいっぱいに書いて解説する私
子供が私を所望するのはそりゃ当たり前だよ⋯⋯💧💧
その中身の無さで異常な自意識の高さ、どこから💧💧
あれ、やっぱりまともじゃないわ🪚😓(マジ終わってる⋯始めて苦言呈しました⋯さあどうなるやら←どうせ無駄なんだろうな⋯⋯)
コメント
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てん
楽しいことも、めんどくさいがまさるようになっちゃって、自分でさらに追い討ちをかけてしまってる。。。😣

ハーロック
あくまで僕の考えです
常識って「社会的に当たり前」と言われます
でもその“社会的に”が、けっこう曖昧だと思っています
いじめはいけない
物を盗んではいけない
人を殺してはいけない
こういうのは分かりやすい
でも一方で
親に逆らってはいけない
先生や医者の言うことは絶対
日本人らしく振る舞え
会社や上司には忠実でいろ
こういうのは、本当に“常識”でしょうか
たぶん、状況次第
必ずしもそうとは限らない、僕はそう思います
だから「常識だろう」と言われると、引っかかる
その言葉は、ときどき人を黙らせるために使われるからです
僕は常識に従うことより
自分の中の“良識”に従いたい
良識って、要するに「健全に判断する力」だと思っています
常識は、時代や地域や立場で簡単に変わる
誰かの都合で作られる部分もある
戦中戦後の日本を見れば、それは分かりやすい
風潮に流されず、いったん自分で考える
少数派になることがあっても、胸を張っていたい
「王様は裸だ」と言える側でいたい
「常識で判断しろ」
この言葉に、人生を預けたくありません
僕はそう、思うのです
#希望


なお
僕は聖書を読むとき、時に、たった一言の言葉の前に立ち止まることがあります。
今日、心に引っかかっているのは、二つの小さな言葉。
「ヒネニ」と「アーメン」です。
この二つは、まるで対になるように、神さまとの関係の中で輝きを放つ言葉だと気づきました。
まずは「ヒネニ」から。
これはヘブライ語で「הִנֵּנִי」と書き、意味は「ここに私はいます」「お呼びでしょうか」。
神さまからの呼びかけに対して、「はい、私はここにいます。あなたのために何ができますか」と、全身全霊で応答する姿勢を表す言葉です。
モーセ五書の中では、アブラハムが息子イサクを捧げるようにという、あの難しい招きを受けたとき(創世記22章1節)、彼は「ヒネニ」と答えました。
また、神さまが夜、少年サムエルを呼ばれたとき(サムエル記上3章ですが、五書の精神に通じます)、彼も「ヒネニ。あなたのしもべは聞いています」と答えます。
この「ヒネニ」には、「私は完全にあなたの前にいます。私の全てを差し出します」という、信頼と委ねりの気持ちが込められているように感じます。
僕はこれを読むたび、「私は、目の前の神さまに対して、これほど全存在をかけて『います』と言えているだろうか」と、胸が締め付けられる思いがします。
そして、もう一つの言葉が「アーメン」。
ヘブライ語では「אָמֵן」。これは「確かに」「そのとおりです」「真実です」という意味の、確認と同意の言葉です。
モーセ五書では、特に申命記の27章から28章にかけて、神さまの祝福と呪いの言葉に対して、民が「アーメン」と応答する場面があります(申命記27:15-26)。
民は、神の言葉が真実であることを認め、「その言葉が、わたしの上にもその通りありますように」と、自分自身に引き受けて宣言するのです。
「ヒネニ」が神への「応答」だとすれば、「アーメン」は神の「言葉への同調」。
「あなたがおっしゃることは真実です。私はそれを自分のものとして受け入れます」という、深い信仰の姿勢がここにあります。
僕はこの二つの言葉を見つめながら、祈りとは何かを考えさせられます。
神さまへの祈りは、一方では「ヒネニ」——「私はここにいます。あなたの御心のために」という、能動的で献身的な姿勢。
他方では「アーメン」——「あなたの約束は真実です。その御言葉に全てを委ねます」という、受動的で信頼に満ちた姿勢。
この両方が、まるで呼吸のように交互に働くとき、神さまとの生きた関係が育まれていくのではないでしょうか。
今日、僕自身に問いかけてみたいと思います。
私は、日常の中で、神さまの細やかな呼びかけに「ヒネニ」と答えられているだろうか。
また、聖書を通して語られる神さまの真実な約束に、心から「アーメン」と言えているだろうか。
小さな言葉の一つひとつに、これほど深い意味と覚悟が込められている——モーセ五書を学ぶたびに、僕はその豊かさに驚かされます。
まだまだ知らないことがたくさんあります。これからも、一節一節を大切に読み、その響きを心に留めていきたいと思っています。
もし、この「ヒネニ」や「アーメン」のような、聖書の言葉の深みを、もっと身近に感じてみたいと思われた方がいましたら。
ぜひAmazonで「モーセ五書 マンガ 石川尚寛」と検索してみてください。無料で読めますし、続きもどんどん公開しています。
僕自身の学びの旅が、形になったものを、あなたと分かち合えれば嬉しいです。
#ヒネニとアーメン
#モーセ五書マンガ
#聖書の小さな言葉



りんご

はおろく
娘は保育園行きたいというし
先生みんな優しいよ
というから連れて行くけど
また先生に無視されるのかな
冷たくされるのかな、、
とか考えただけで憂鬱
はぁ😭

ボンチュー
ボイチャありだから古参リスナーの声聞かなきゃいけないのが意味わかんないんよな
孤独なアロハ
自分から行動してる人生だからさ

ぽぽちゃん
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あとは微調整して査読出すだけや!

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今週また行けってことですね…

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ほしの 投稿者
支援だからこそ教室以上の指導が必要なんですよ💧💧 手がかかる、だからこそしっかり導いてあげなきゃいけない 支援が一番大変なんだぞ😡💢💢 ナメてるわ 何より可哀想だ 見ていられない💧💧
nico
good jobჱ̒ ー̀֊ー́ )𝒀𝑬𝑺 ただぁ𖠶𖠶ꜝꜝ サイコパスには伝わらない可能性が 大ですなぁ`⎚⩊⎚´ -✧