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へにょ

へにょ

差別を無くしたいから制度を改革しようという発想だから差別が無くならない。
そもそも現代社会は全ての人間が救済される設計をしていないからだ。
まず社会の制度を拡張をすることに時間や費用がかかる。しかもそれは多くの人にとって無意味なものである。さらにひとつ追加した所で第二第三の差別対象が浮かび上がってくる。そうなると制度を無限に追加しなければならない。その上問題の根本は解決しない。
本当に差別を無くしたいのなら生まれた時点からの教育を変えなければならない。剃り込みであり洗脳である。それも現代社会のように倫理や道徳、感情的なものではなく論理に基づいた考え方を刷り込む必要がある。
例えば左利きが差別されていた過去がある。しかし現代では和らいでいる。それは制度によるものではなく考え方の変化である。左利きが悪とされた合理的な理由がないからだ。逆にかつて左利きが悪とされた理由の中で合理的なものを考えると、文字は右利き様に作られていることや文章を書く際に右利きの方が都合がいいというのがある。しかしこれは横書きの話であり、縦書きではその限りではない。だから書道では手を紙から浮かせて書く。
つまり一件合理的な理由に見えても右利きである必要がある絶対的な理由にはならない。なぜなら縦書きの場合は左利きの方が都合がいいからである。
では現代ではなぜ左利きの差別が和らいだのか。その理由のひとつに情報機器の発達と普及が考えられる。それらは聞き手に関わらず文字を連ねることが可能だからだ。つまり右利きであることにこだわる理由がなくなったということだ。
次に例えば過去にはLGBTに該当する人が差別されていた。現代でもそうではあるが、多様性という言葉により軟化している部分もある。逆に表に出てきたことにより激化している部分もある。しかしそれら多様性を推進する側も合理的な、それらを推進する理由はない。推進派は「差別は悪」だという思想に基づいて行動している。逆に反対派は多様性を認めることに対する生理的な嫌悪や、制度改革の無駄さを重視している。生理的な嫌悪には感情的な理由しかないが、制度改革については前述のように、大多数の人にとっては不必要な時間的金銭的負荷がかかるという合理的な理由がある。
ではここで全く逆の視点を持つ、絶対に相容れない両派閥が和解するための策はなにか。
それは制度の追加や改善などではなく考え方を根本から変えることである。寛容な考え方で言えば推進派は「性別が2種類しかないと考える人もいる」と考え、反対派は「性別は複数あると考える人もいる」と考えることである。しかしこれには問題がある。お互いの主張の根底に感情が絡んでいるということだ。ある程度人格が形成された後の個人がもつ感情は、論理で抑制することができない。したがって物心つく前からそういう教育を普及させて刷り込むことが必要である。それは現代の社会構造をもつ世界では10年20年でなし得ることではないが、100年200年とかけ現在の価値観をもつ人間が全ていなくなり、新たな価値観をもつ人間のみが存在する社会になって始めて実現する。
分かりやすく言えば現代とは逆に「差別は悪ではない」という思考を、存在する全ての人間が思考の基盤としてもつことである。また他者の在り方について個々人が何かを感じる余地のない、感じる必要のない思考を刷り込むことである。これが達成されれば仮に隣人が左利きやLGBTであっても興味がない。興味がなければ指摘や批判、差別も起こらない。また仮に逸脱した人間が現れ差別が起きたとしても、それに加担する人間は現代に比べて大幅に減るだろう。まぁここまで色々述べたが、そもそも現代社会の倫理観や価値観ではこの考え方が受け入れられないが。
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コメント

めとろのーむ

めとろのーむ

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差別を無くす、という1点のみならその方法で成立しますが、行き過ぎた民主主義は発展を阻害すると思います。この意見に賛成する人の大半は、「自分は洗脳を受ける側だ」とは考えないように、現在手に入れている自由を他人に握らせようとはしないでしょう。また、差別を無くすためにひとつの意思に統合させるとして、それは誰が決めるのかという問題も残ります。その誰か、はナチスの再演となりかねないですね。個人的には最も合理的な解決策として、多重思考の訓練を幼少期から受けさせることが良いのではと思います。例を借りるならば、「性別は2種か、複数か」という問いに対し、「どちらの可能性もある」と考え、なぜ2分割されてい→

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へにょ
へにょ
続きが削除されてしまっているのが残念ですが 確かにこの時代でこの意見に賛成する人の大半は自分が支配を受ける側とは考えないでしょう。しかしそれはただの思い上がりであり傲慢です。もしこの話に賛成するならば自らもその枠組みの中で支配される側であり制限される側だと理解する必要があってしかるべきだと思います。またこういう話では大抵ナチスが例として上がりますが、当時のナチスが結局は失敗に終わったのはめとろのーむさんが主張したように「誰か」という1人(あるいは少数)により推し進められた点にあると考えます。倫理とは多数の共通認識であるので、仮に当時ナチスが行ったことがごく一部ではなくある程度の規模を持って行→
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