(昨日も見かけたけど、嵩が携わる仕事を全て本意ではないとしてしまう事は携わって生み出された数々の作品を否定する事になる訳で、そんな解釈をする事やその解釈を是とする事はやなせ先生と生み出された数々の作品に対する冒涜だよ。こんな当たり前の事も考えられないの?書き手も一部の読み手も。)