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姉川の戦いは、戦国時代の元亀元年6月28日に近江浅井郡姉川河原(現在の滋賀県長浜市野村町付近)で行われた合戦である。なお「姉川の戦い」という呼称は元々は徳川氏の呼び方であり、布陣した土地名から織田、浅井両氏の間では「野村合戦」、朝倉氏では「三田村合戦」と呼んだそうだ

合戦までの経緯

尾張出身の戦国大名である織田信長は、駿河の今川義元を討ち取り、斎藤龍興から美濃を奪取したのち、上洛を目的として近江に侵攻した。侵攻に先立ち、北近江を治める浅井長政には、妹であるお市の方を娶らせて織田氏との縁戚関係を結んでいた。信長は、浅井氏からも援軍を得て、共通の敵である南近江の有力大名である六角義賢父子を破り、足利義昭を奉じての上洛を果たした。

その後、信長からの上洛参集要求などを拒んで対立した越前の朝倉義景に対し、元亀元年(1570年)4月には信長が越前への侵攻を開始すると、朝倉氏との縁も深かった長政は信長から離反し、織田軍の背後を襲った。

優位から一転、挟撃される危険に陥った信長は撤退を開始。信長の家臣たちは「金ヶ崎退き口」を経て退却した。
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開戦 信長は、この報復戦のために軍備を整えると北近江へ出陣。まずは報復に出撃してきた六角義賢父子を一蹴し、織田軍を恐れた坂田郡の堀秀村などが信長に降った。 6月21日、信長は虎御前山に布陣すると、森可成・坂井政尚・斎藤利治・柴田勝家・佐久間信盛・蜂屋頼隆・木下秀吉・丹羽長秀らに命じて、小谷城の城下町を広範囲に渡って焼き払わせた。翌6月22日、信長は殿軍として簗田広正・中条家忠・佐々成政らに鉄砲隊500、弓兵30を率いらせ、いったん後退した。

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6月24日、信長は小谷城とは姉川を隔てて南にある横山城を包囲し、信長自身は竜ヶ鼻に布陣した。 ここで徳川家康が織田軍に合流し、家康もまた竜ヶ鼻に布陣。一方、浅井方にも朝倉景健率いる8,000の援軍が到着。朝倉勢は小谷城の東にある大依山に布陣。これに浅井長政の兵5,000が加わり、浅井・朝倉連合軍は合計13,000となった。
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姉川の戦いは、戦国時代の元亀元年6月28日に近江浅井郡姉川河原(現在の滋賀県長浜市野村町付近)で行われた合戦である。なお「姉川の戦い」という呼称は元々は徳川氏の呼び方であり、布陣した土地名から織田、浅井両氏の間では「野村合戦」、朝倉氏では「三田村合戦」と呼んだそうだ